システムのエラーに、シナリオが殺されていた。
シナリオが劣っているのなら、システムが救える。システムさえよければ、ゲーム性が高ければ、シナリオなどどうであっても楽しめる。物語なぞなくてもよいのだ。良きシステムがあれば、物語は添え物でいい。設定さえあればいいのだということを、つい最近「世界樹の迷宮」で我々は知っている。
しかし、シナリオだけが良く、システム、ゲーム性が劣るとき、シナリオは負ける。どうしようもなく負け、最後まで見てもらえない。
未熟な物語は、完成したシステムに救われる。未熟な物語と未熟なシステムは、鉛筆描きのラフ画を見るときのように、受け手が脳で「かくありたかった像」を補完するがゆえに救われる。だが、成熟した物語は、もろい。未熟なシステムは成熟した物語を、あっけなく打ち砕く。
そして悲しいことに、システムの不備とセットだからこそ、どうってことない何かが「素晴らしく」見えている可能性もあるのだと、私は疑ってしまう。システムの不備が、シナリオへの正当な評価を妨げているのだ。
苦難に耐えた後ほどこされた一杯の水と、なにげなくひねった蛇口から出てきて、いつでもタダで飲める水道水の味、その印象の差があるのではないか?
システムの不備、という苦難を乗り越えた後だから、どうってことのない物語を、面白いと思いこんでいるのではないか?
十分に楽しみ、もっと無邪気に楽しみたかった、大好きな物語をすら、システムの不備が疑わせてしまっている。