例えば、「ら抜き言葉の出現は合理的な変化である」という研究は確かにありますが、これは「ら抜き言葉の出現にはメカニズムや規則性なんてない」というような考え方への反論であって、「合理的」というのはまさに「理」がある、という程の意味で用いられます。ここで「合理的であるから「乱れ」ではない」なんてところまでロジックを進めてしまうと、やっぱりそこに価値判断が入り込んでしまっているような気が*1。
確かに専門家は「~って乱れ/誤用なんじゃない?」という疑問に対して、「いや、そこにもきちんとした規則性があるんです≒合理的な表現なんです」というような答えを返すことがあります。でもそれは「「乱れ/誤用」=理由の無い単なる間違い」というところに反論してるだけなんですよね。決してその表現の「正しさ」や「美しさ」を保証しているわけではない。この辺りは研究者であれば結構当たり前のことなので話をすっ飛ばしてしまっていて、誤解を受けていることなんかがあるかもしれません。ここで「合理的」に「良い/正しい/美しい」という意味づけをしてしまうのは、進化論の話で「進化」と「進歩」をごっちゃにしてしまうようなものなんじゃないかなあ、と。